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Posted by みやchan運営事務局 at

2011年08月15日

もはや戦後ではない。




戦争どころか、戦後すら知らない世代の方が多いのかな。
そう思う今日この頃です。

私が子供の頃は、
まだ戦争があったのだという痕跡は残っておりました。

防空壕はいたるところに残ってましたし、
ノースキャンプと呼ばれる土地もありました。

広島県の呉には海軍工廠という海軍の基地があって、
戦艦大和が造られたことで知られています。

私の実家は呉市の中の広というところなのですが、
広にも海軍工廠があったのです。

そのせいか、
戦後は大勢のアメリカ軍が進駐して来て、
専用の住居が広い範囲にわたって造られており、
そこをノースキャンプと呼んでいたようです。

日本人が食うや食わずの時に、
金網の向こうでは灯りが熇熇と灯り、
夜になるとダンスパーティーの華やかな音楽が聞こえ、
別世界のようだったと言います。

父の幼なじみは
そこに食料を盗みに入り、
その場で射殺されたのだとか。

私が物心ついた時には
もうアメリカ軍は引き上げたあとでしたが、
ノースキャンプの施設はそのまま残っており、
日本の企業の社宅になったり
してました。

そこは不思議な一角でしたね。
木の塀に囲まれた瓦屋根なのだけど、
塀と柱は緑色に塗られているのです。

家の壁はクリーム色がかった白っぽいしっくいで、
黒い小さな黒板のようなモノが
塀と壁に貼られており、
2037、みたいな4桁の数字が白いペンキで書かれているのです。

玄関は引き戸ではなく開き戸で、
木の枠がついていました。
そして日本の家に当時は見られなかった、
網戸が内側についていました。

トイレは洋式の水洗で、
上にタンクがあって、
そこから下がっている鎖のようなものを引くと、
水が流れる仕組み。

ノースキャンプの道は当時としては広く、
碁盤の目のように走っており、
松の木が並木として植えられていました。

中心には集会所のような大きな洋館があって、
中を覗くと、
広い部屋に暖炉があるのが見えました。

その横には広い運動場のような場所があり、
片隅には小さな公衆トイレくらいの大きさの建物がありました。

そこにはドアがなく、灯りもなく、
覗いてみると階段が5段くらい地下に降りるようになっていて、
窓もないもんだから薄暗くて怖いところでした。

そこの奥には英語がかかれた小さなダンボールが
いくつもあって、
その中には得体の知れない薬がバラバラと入っていました。

何の薬だかサッパリわかりませんでしたね。当然だけど。
その中でも、錠剤と粉はまだしも、
カプセルは不気味な存在でありました。

だって、誰も見たことなかったんですもの。
カプセルを。

どれも綺麗でした。
二色の細長いモノはツルツルしてスマートでした。

「なんじゃろう・・・これ・・。」

男の子がいじっていると、
パカッと割れて、中から粉がこぼれました。

うわわわっ!!!!
みんな大慌てです。
だって、そこに入ってはいけないと言われてたからね。

子供達のウワサでは、
いつか進駐軍がまたやってきて、
そこにある物を回収して帰るのだから
下手にいじると罰が下ると信じられていました。

粉をこぼして汚した跡があったら、
バレてしまいます。

全員がそこから飛び出し、走って逃げ、
しばらくはそこに近付かなかったのを覚えています。

でも、そのうちに、
進駐軍はもう来ないからいいらしいということになり、
その薬を使ってお医者さんごっこしたりして
遊んでましたけど。

藁葺き屋根の家と、段々畑と田んぼと、
川には水車がまだあった田舎に、
そこだけ空気の色まで違うように思えたノースキャンプは、
戦後という言葉とセットになって
私の心の中に残っております。

だらだら書き連ねた思い出話、
読んでくれてありがとう。

今日は終戦記念日です。

  

Posted by キリンさん at 13:17Comments(5)王様の耳はロバの耳