2016年04月27日
努力が報われるということ

努力しても、なかなか報われないものです。
それよりもラッキーな人の成功が目立ったりして、苛立ちます。
もっともラッキーだけでうまくいくことなんて、ホントはないのだけどね。
何が言いたいのかというと、
昨日の広島東洋カープの新井選手の2,000本安打達成。
実にめでたい。
昨日は何度もチャンネルを変え、
スポーツニュースをあさってしまいました。
色んな野球界の先輩の声も紹介されました。
そこで祝福と同時にみんなが言っていた言葉。
「まさか、あの新井が・・・」
そう、新井選手の入団は、ドラフト6位。
決して将来を嘱望された新人ではなかったのです。
入団当時に監督だった達川さんが言ってました。
「はっきり言って、全く期待してなかった。
やっと試合に出たと思えば、アウトカウント間違えて失点したり、
ホームラン打ったランナーに追い越されたり、珍プレーばっかり。
5年ももたんと思っていた。
でも、誰よりも練習していたことだけは、それだけは断言できる。」
涙が出ましたね。
達川さんは監督のころ、練習に厳しいことで有名でした。
その人が、一番練習していたと断言するなんて、すごいことなんです。
新井選手には、阪神に移籍したり戻ってきたり、
波乱万丈なドラマやエピソードが満載で、
決してすんなりとここまで来たわけではありません。
だけどいつでも一生懸命で、みんなに愛されるのであります。
「勇気をもらった」という言葉を口にするの嫌いだけど、
昨日ばかりは頂きました。
しばらくブログをさぼっていましたが、
またぼちぼち頑張ろうと思うキリンさんなのでありました。
2016年03月02日
結婚式のスピーチ

自分が忘れてる思い出を他人から語られて、
こっぱずかしい思いをしたことはありませんか?
こないだ、福岡から二人の友達が来ました。
宮崎に用事があったのだけど、ついでに会えないかという話になり、
久々に3人でおしゃべりをしたのです。
二人は私が新婚でまだ福岡に住んでいたころ、
アルバイト先で知り合って、まるで3姉妹のように仲良くしておりました。
年齢では私が断然長女なのだけど、
中身はなんちゅうか、二人に助けてもらうことばかり。
「ヒロ子にはよくお掃除してもらったよね~、ご飯も作ってもらったり。」
「レイ子は着付けを教えてくれたよね~、お陰で今でも着られるよ。」
そこでレイ子が言いました。
「私もつかさちゃんにしてもらったことある~。」
「なにしたっけ?」
「私の結婚式で、スピーチしてくれたろ?」
「あっ、したした。」
「その時、私がつかさちゃんにパンツ貸した話、したろ?」
「えっ・・・・・・・・・・、あっ・・・・・・、した・・・・・。」
パンツとは、もちろん下着のパンツであります。
実はその頃、レイ子と私は一緒にテニスを習っておりまして、
その帰りにレイ子の家にお邪魔し、
「つかさちゃん、お風呂に入って帰り。」
ってなことになり、替えのおパンツを借りたのでした。
そのエピソードを結婚式のスピーチでしたわけです。
「まったくもおおおおお、つかさちゃんったら、
人の結婚式でパンツの話やらするか~~~???」
「でも、ウケたよ?」
横でヒロ子は大笑い。
涙が出るほど笑ったあと、
「でも、あの頃は楽しかったね~。」
「うん、楽しかった。」
「ほんとに楽しかったね。」
と、3人でしみじみしたのでした。
しみじみしてくれて、有難う。
他にも色々と迷惑をかけた私ですが、
笑い飛ばしてくれる二人に本当に感謝です。
また会いたいね、心からそう言いながら別れた3人でありました。
そうそう、最初の画像は3人でお仕事した時。
この時もまた私がやらかしちまって、事件になったのでした。
前に記事にしたことがあるけど、いつか忘れてしまった。
ヒマな人は探してみてね。
2016年02月10日
喜ばれるプレゼント
友達に送った荷物が届いたようです。
お礼のメールをもらいました。
荷物はともかく、私の手紙をいつも喜んでくれるので嬉しい。
友達といえば、
今日のお昼に友達とランチしました。
県外に住む男性なのだけど、仕事があると寄ってくれるのです。
その時にプレゼントの話になりました。
私は見ていないのですが、
テレビの番組で、夫からのプレゼントが妻にウケない、
そういう話をしていたのだとか。
たとえば妻の誕生日に夫が心をこめてプレゼントを買って来ても、
それを見た妻は、喜ぶどころか不機嫌になってしまったり。
何故か?
それは、日頃から妻はそれとなく信号を送っているからなんだって。
誕生日にはきっと夫がプレゼントを買って来るに違いない、
でもヘンな物を選ばないように、欲しいものをにおわせるように、
行動したり話したりしているわけなのです。
にもかかわらず、それにちっとも気付かないで、
全く的の外れた品物を選ぶものだから、腹が立つんだって。
友達もまさにその通りで、
妻を喜ばせることに成功したことなし。
だけど、いつも一生懸命に考えるのだと。
何か欲しそうな物はないかと、日頃の会話にも気を付けているんだって。
それなのに、テレビでは奥様方が言いたい放題。
「あれほど気付かせるように仕向けてるのに。」
「わざわざ要らない物ばかり買ってきて。」
「結局、妻のことなんて真剣に考えないから気付かないんだ。」
「男って、独りよがりだよね~。」
それを聞きながら、彼は考えたそうな。
「どんなに思い悩んでも、結局は無駄なんだから、
もう考えない!!自分がやりたい物をやるのだ!!!」
・・・ま、うちの夫じゃないからいいけどね。
それにしても、プレゼントって難しいですね。やれやれ。
2016年02月09日
胸が痛むおはなし。

東京で、大学時代の友達に会いました。
同い年です。
これくらいの年代になると、
共通の心配ごとが出てくるのです。
親のこと。
彼女のお姑さん、何年か前に亡くなられたのですが、
最後はやはり病院のお世話になったのだそうです。
寝たきりになり、会話は出来ないのだけれど、
こちらが話すと視線が動くので、
聞こえてるんだなあと思い、
お義姉さんと二人で、その日の出来事などを、
交代で話して聞かせておりました。
だけど、そこは個室ではありませんでした。
なるべく声を小さ目にと控えてはいたのだけど、
必ず文句を言う人が一人、いたのです。
「うるさいねえ、人の迷惑も考えず。」
80歳くらいの女の人で、
看護師さんの話では、身内の面会が全くない人だとのこと。
ちょっと気の毒だなあと思いました。
だけど、やはりお姑さんに声をかけることは、
やめるわけにはいきません。
だって、話をすると、どこか嬉しそうな表情に見えていたから。
その人に対して肩身の狭い思いをしつつ、
帰りがけには必ず申し訳ありませんでしたと謝りながら、
面会を続けていたある日のこと。
いつものようにお姑さんを見舞い、
うるさくしてスミマセンとぺこぺこ謝りながら、
部屋を出たとき、
いきなりその人の叫び声が聞こえたのです。
「みよこーーー!!!たけしーー!!!まなぶーーー!!!
誰でもいいから 会いに来てーーーーー!!!!!」
それを、何度も何度も繰り返し叫んでいるのでした。
友達は言いました。
「もう、胸が痛うてな、
みよこになったろかと思うたくらいや。」
その人の身内には身内で、きっと事情があるのでしょう。
何も知らずに誰を責めるわけにもいかないのです。
ただ、それを聞いた私も胸が痛くなった、というお話なのでした。
(※文中の名前は仮名です。)
2016年02月08日
銀座で迷子

お江戸は日本橋、夜の麒麟さんであります。
かっこいい。
というわけで、東京に行ってきました。
もちろん仕事ですよ。
羽田に着いた私は無事にホテルまで行けるのか?
安心してください。
二人ほど、同じホテルに泊まる人がいるのだ。
沖縄と、鹿児島から来る二人です。
いつものように羽田で待ち合わせて、連れて行ってもらったんだよ~。
ただ付いていくだけだから、楽勝なのです。
土曜の夜は懇親会があり、
日本橋で美味しいお料理をたっぷり食べました。
それから二次会で盛り上がり、
これからカラオケに行こうという話に。
そこで沖縄のメンバーが言いました。
「帰って寝るわ。みんなで楽しんできて。」
彼はとてもねむそうでした。
早寝早起きのオトコですから、よくあること。
じゃあねと別れ、タクシーでカラオケボックスにGO!!
1時間ほど歌ったら、帰ろうねということになりました。
明日はお仕事、会議なのだから。
鹿児島のメンバーに私は聞きました。
「ねえ、ホテルの名前は何だっけ?」
「えっ!!アンタ、知らんと?俺、知らんよ。」
そうでした。私がわかってることになっていたのでした。
そこで慌てない私。
こんなこともあろうかと、お部屋のカードキーを持ってきたから、それを見れば大丈夫なのだ。
用意周到ですね。
カードキーは、小さな袋に入れられています。
袋の字を読みました。
「CARD KEY]
あれ・・・・?それだけ・・・?
でも大丈夫。カードを読めばいいのだ。
袋からカードを出してみました。
ほら、書いてある。
「card key」
同じやないかーーーい!!!!!!!
いきなり大ピンチです。
こうなったら、先に帰った沖縄の人に電話で聞くしかないのです。
起きてるのか????あんなに眠そうだったのに。
眠り込んでたら、電話に出ないかも???
(迷惑かけるか否かは年頭になし)
あわてて電話した私。
「・・・・・もしも~し・・・」
とても眠そうな声で、電話にでてくれました。
「ごめ~ん、ホテルの名前がワカラン!!」
「〇〇ホテル・・・・」
あきらかに寝てたのね。スマン。しかし助かった。
東京のメンバーがタクシーを停めてくれました。
「〇〇ホテルまで。」
「え?何ホテル?住所はわかりますか?」
「じゅ、住所ですか??」
一緒にいてくれた人たちを振り返り、
「ホテルの住所はどこ!!??」
「し、知らない・・。」
だよね~。
もう一度、電話をしようか?
そんなことが出来るのか?していいのか?
すったもんだしているうちに、
待っていてくれたタクシーはどこかへ走り去りました。
あたりまえだよね。
「そうだ、検索すればいいんだ!!」
と、若いメンバーが気付いてスマホで調べてくれました。
そしてタクシーを停めると、
「すみません、このホテルわかりますか?」
と、画面を見せながら聞いてくれたのです。
「わかりますよ。」
よかったよ~~~~~~~~~~。
というわけで、
酔っぱらってる鹿児島のメンバーと一緒に、
無事にホテルに帰りついたキリンさんなのでありました。
いやいや、人生はエピソードの宝庫ですね。
翌日は、会議も無事に終わり、
美味しいお昼ご飯を食べ、満足満足と言いながら宮崎に帰りついたのでした。
さて、気分を変えて日常の仕事モードだ。
元気だして頑張ろうっと。
2016年01月08日
お正月の遊び、その2

実家の庭の蝋梅です。
ちょっと前に友達から言われました。
「〇〇さんがね、
キリン堂さんとは話したことないけど、
やり手で几帳面で、何でも計画したら即実行、みたいな、
すごい人なんでしょう?
って言ってたよ。ぷっ、くくく。」
いや~、知らないって怖いことですね。
どうせなら、知らないままでいてほしいです。
先日の新聞に、佐藤愛子さんが、
昔のお正月を懐かしむ記事を載せておられました。
やはり誰の胸にも自分のお正月があるものなのですね。
私のお正月というと、
羽子板を卒業するころ始まった、トランプが忘れられません。
これには父ちゃんが参戦し、
家族対抗トランプ大会になるのですが、
なにしろギャンブル好きな父ちゃんが加わるのですから、
盛り上がらないわけがないのだ。
時期としたら、私が中学生から高校生にかけて。
弟が小学校の低学年から中学に入る頃まで。
誘うのはいつも父。
「トランプしちゃろうか?(してやろうか?)」
もちろん私達も待ってましたとカードを出したりテーブルを片付けたり、
準備万端整えるのです。
父は、いかにも子供に付き合ってやろうかという言い方ですが、
本当は自分がやる気満々なのだ。
その証拠に、子どもだからって容赦しないうちの父。
トランプは、いつもセブンブリッジのみで、
点数を付けて延々と戦うのですが、
父のハッタリは素晴らしいもので、
二人の子供は一ころにやられてしまうのが常でした。
「お父ちゃん、ずるい!!」
と顔を真っ赤にして怒れば、
「それがゲームじゃけん。」
と、実に嬉しそうな、にくらしい顔で笑うのです。
負けが続いて弟が泣きだせば、
「男らしゅうない!」
と、せせら笑いながら、せっせとカードを配るのです。
どっちが男らしゅうないんじゃ、と心の中で思いながら、
そこでやめると怒られるし、
第一自分だって悔しいので、必死でゲームを続けるという、
微笑ましいとはとても言えない家族の修羅場。
それが、何故かとても懐かしい、私のお正月なのでありました。
もう何年もトランプをしていません。
父も亡くなり、母もトランプはもう無理かもね。
自分の家族で、やってみようかな。
麻雀の方がいい、そう言われるかもね。
そうそう、断食ですが、まっだ続いてます。
四日目になるのだけど、なんだか快調にとばしているという感じです。
明日はどうしよう。
明日、考えるわ。
2016年01月07日
いつか別れはやってくるものなのだ。

どんなに努力しても避けられないもの。
それが別れです。
年齢を重ねるにつれ、身に沁みて感じるのです。
昨日、とても尊敬していた方が亡くなりました。
頭が良くて、懐の広い、育ちの良さ丸出しの人でした。
もう会えないって、辛いですね。
お陰で食欲がまったく湧かないのですが、
断食中だから、かえってラッキー。
なんて、不謹慎なことを言ったりして紛らしてます。
真面目に落ち込むとヤバいので、そうならないように切り替えるのです。
そんな子狡さも、年齢のせいというか、おかげというか。
とりあえず、私は元気に生きていかねばならないのだ。
頑張ります。
断食の話に戻りますが、
今日で三日目。
とてもスッキリしてきました。
この調子だと、もうちょっと行けそうです。
さて、いつまで続くのでしょうか?乞うご期待でございますよ。
2016年01月06日
お正月の遊び

「何年前の写真ですか?」
そう思った人、体育館の裏に来なさい。
お正月の話だから、
やはり着物であろうかと思ったんだよ。
子どもの頃、お正月が楽しみで楽しみでたまりませんでした。
もういくつ寝るとお正月、という歌のように、
指折り数えて待っていたものです。
お年玉がもらえるから?
もちろんお年玉は嬉しいのだけれど、
「貯金しとく」という名目で全額を親に巻き上げられてたからなあ。
そんなことより断然嬉しかったのは、
母に遊んでもらえる!!ということなんですよ。
年末になると、おばあちゃんから羽子板が届きます。
これは布のお姫様や藤娘の人形がついてるデラックスなもので、
見るにはいいけど羽根つきには不向き。
実用的な羽子板は、母が買ってくれるのです。
板に絵具で絵が描いてあるシンプルなものだから、
軽く振り回すことが出来るのです。
お正月の、お客様が途切れる時がチャンスです。
弟と私は、座敷の柱と柱に腰ひもを結わえて、
即席のネットを造ります。
そこで、家族の羽根つき大会が始まるのでした。
バドミントンは屋外じゃないと難しいけど、
羽根つきだったら室内でも出来るのですよ。
父ちゃんはどこかに出かけてしまうので、
母と弟と私の3人で思い切り遊ぶ、夢の時間が始まるのでした。
母vs弟と私の連合軍。
畳の上だから、少々ころんでも痛くないので、
泣き虫の弟も笑いっぱなしです。
いつも忙しい母を、二人で独占できる幸せな時間でした。
今朝のテレビで羽子板のことをやっていたので、
思い出した一コマでした。
さて、断食も二日目です。
すこし眠いくらいで変わりなくお仕事しています。
明日も頑張れそう。応援してね。
2015年12月30日
年越しの弁

今年もあとわずかですね。
どんな年であっただろうかと振り替えっても、
すぐには思い出せない年齢になってきたのが淋しい。
おかげで嫌なことも忘れるんだろうなあと考えると、
それは有難い。
さて、いま私は58歳。来年は59歳です。
もう今更58だの59だの、
めんどくさいから早く60になって還暦ですと言いたいお年頃です。
孔子様がおっしゃるには、
「五十にして天命を知る」
のだそうで、
50代の私はずっと天命について考えてきました。
だけど、
50歳のときに天命を知るのが正しいのであれば、
58歳の今となっては、かなり手遅れじゃんと気づいたのだ。(遅い)
てことは、今のトシだと
「六十にして耳順う(みみしたがう)」
の方がずっと近いのだ。
このさい天命は置いといて(いいのか?)
来年は「耳順う」という境地に辿り着けるのか、それがテーマです。
耳順うとは、
他人の言葉に素直に耳を傾け、正しいと思えば受け入れることが出来る、
という意味だそうな。
・・・・なんか、年々これに逆行してるような気がするんですけど。
あと一年とちょっとで、そんな六十歳になれるのか?私。
不惑さえ乗り越えてないというか、すべて置き去りのくせに。
自信ないけど、頑張ろうと思うキリンさんなのでした。
皆様、こんな駄文を読んで下さって、有難うございます。
来年はもうちょっと面白い文章が書けるように心がけますので、
引き続きご贔屓に~。
良いお年をお迎えください。
2015年12月24日
リバイバル
中島みゆきの歌にありましたね。
「りばいばる」
ユーミンの「いちご白書をもう一度」
これもリバイバルの歌。
今夜はクリスマスイブです。
恋人同士でロマンチックなラブストーリーなどを見る。
いやがおうでも気持ちが盛り上がる!!!
なんちゅうことは、あまりないのでしょうか。
この際、過去の名作でもいいと思うのだけど、
過去の名作をリバイバル上映するってことも減りましたね。
セントラルシネマで「午前10時の映画祭」があるし、
宮崎キネマ館で嬉しい作品がかかることもあるけど、
絶対的に少ないのです。
私はリバイバル上映のおかげで、
色んな名作を映画館で観ることが出来ました。
「ローマの休日」「エデンの東」など、
挙げると長くなるのでやめるけど。
昔を語ると、ノスタルジックに過ぎるなどと批判されるけど、
今の世の中、なんだか使い捨てだらけのような気がするのですよ。
新しく、刺激的なものだけが脚光を浴びている、
そんな気がするのです。
一本の名画を大事にしていた時代。
それが懐かしいのです。
今は上映するたびに、お客さんは総入れ替えがあたりまえだけど、
前は朝から晩まで居続けても良かったので、
好きな映画だと、お弁当を持って一日何度も観る人だっていました。
ちょっと前に流行った映画がもう一度かかることって、
ずいぶん減ってますよね。
DVDでもう一度、というテはあるけれど、
映画館で観るのとはやはり違います。
映画を観て感動して、大きなスクリーンでもう一度、そう思っても、
二度とそのチャンスはないのです。
淋しいことであります。
何かを、時間をかけて慈しみ育てる。
そんな気持ちが廃れかけているような気がして、
ちょっとブルーなキリンさんなのでした。
そうそう、
最初の画像は実家から見た風景。
子どもの頃より家は増えたけど、山は変わらない。
それだけでもほっとするのでした。
2015年12月18日
欽ドン

欽ドンと言うと、
「ああ、昔のテレビ番組ね。」
と言われるでしょう。
たしかにそうなのだけど、
実は、テレビになる前にはラジオ番組だったのだ。
知らないでしょ~、ふっふっふ。
こないだ同世代の人と話してたとき、ふと思い出しました。
ラジオで欽ちゃんが読んだハガキです。
「東京で、彼女と同棲していたら、
突然いなかの母が訪ねてきた。
僕はあわてて言った。
お母さん、僕の妹です。」
今でもウケるのかなあ。昔は大ウケだったのですが。
これも思い出した。
やはり投稿ハガキで、寿司屋での会話。
「大将:へい、らっしゃい!なに握りやしょう?
客:なんでもいいから、握ってくれよ。
---間ーーーー
客:な、何をするんだ!!!」
これも当時はウケたんだけどな。
大将が果たして何を握ったのか?
私はアレだと思ったのだけど、友達は別の物と思ったらしい。
想像力って、それぞれですね。
週末なので、ゆるくてどうでもいい話をしてみました。
今夜は忘年会です。今年はきっとこれが最後の忘年会。
楽しんできます。
2015年12月16日
昔の記憶

呉の、大和ミュージアムに母と一緒に行きました。
弟が行こうと言うもんで。
本当のこと言うと、興味ないのだ。大和ミュージアムなんて。
だって、女の子だもん。
でも、せっかく弟が行きたいと言うんだからしょうがない。
やっぱり男の子だよね。
それに、昔いじめた罪滅ぼしとでも申しましょうか。
しかたなく付き合った私。
帰る間際に弟が言いました。
「どこがええんかの~。ワカラン。」
はい?アンタが行きたいんじゃなかったんかい。
「ワシ、興味ないで~。客を連れて何べんも来とるし。(営業職)
せっかく宮崎から帰ってきたんじゃけん、行きたいかのうと思うたんよ。」
オマエも興味なかったんか!さすがきょうだい!!
二人して、どうでも良かったのだとは!
でも、弟の気持ちが嬉しかったので、
お昼は戸田本店でご馳走してやりました。

ここは創業130年の老舗。
山本五十六が愛したという由緒ある割烹なのです。
建物の造りなど、ほとんど昔のままなので、
豪華ではないのだけれど、懐かしくて落ち着くのであります。

窓からは音戸の瀬戸が眼前に広がり、
行きかう船を眺めるのも楽しくて、時間を忘れてしまいます。
お料理は、鯛がメインのコース。
これがまた美味しいのだ。
例によって画像はないよ。営業妨害になりますので。
そんな風に昔にひたっていると、弟との記憶も甦ります。
「むかし、私の同級生の男子がアンタを可愛がるけん腹が立って、
家でいじめたん覚えとる?」
「ん~?覚えてないで。」
えっ、覚えてないの。しまった。
では、あんなことやこんなことも、もしかしたら覚えてないのかな。
聞きたい、聞いて確かめたい!!という衝動に駆られながらも、
そんなヤブヘビは我慢我慢。
実家まで送ってくれた弟は、
宮崎土産の「マンゴーラングドシャ」を与えると、
それに喜び、機嫌良く帰って行ったのでありました。
弟は、岡山に単身赴任中。
だけど今回は私の都合にあわせて有給をとり、
日帰りで帰ってきてくれたのです。
う~ん、仇を恩で返すヤツ。
立派に育ってくれました。
昔の記憶にも色々あるけれど、
嫌なものは忘れ、良い思い出だけ残す、
そんな脳に私はなりたい。
2015年12月15日
これが、メロンパンだ!!!
実家に帰ってきました。
広島県の呉市というところに、実家はあります。
そして、その呉で「メロンパン」というと、
この画像のことを指すのであります。
ほら、袋にちゃんと書いてあるでしょう?
「メロンパン」と。
周りの皮は、一般的なメロンパンに似てるけど、
形が違います。
そして何と言っても、中身が違うのだ!
ほら、こんな風にクリームが詰まっているのですよ。
これはメロンクリームだそうです。
だそうです、と言うのは、ちっともメロンの味がしないから。
それに何十年も食べてなかったので、白あんが入っていると思い込んでました。
人間の記憶って、アテにならないものですね。
思えば昔、
大学受験に失敗し、浪人するために呉を後にしてから、
私のパンの概念が覆されたのでした。
当時は京都の予備校に行ってたのですが、
「給食のときは、コッペパンが出た」
と皆が言うのです。
この「コッペパン」ですが、
呉ではみなさまがメロンパンと言ってるパンのことを指すのですよ。
はい、画像のパンがメロンパン。
メロンパンはコッペパン。(わかる?ややこしいですね)
だから私は思いました。
えっ!!給食にコッペパン?
そんな美味しいパンが出るとは、さすが京都。
ずっとそう思い込んでいました。
え?じゃあ、呉では給食のパンを何と言っていたのかって?
それはズバリ「給食のパン」。そのまんまです。
久しぶりにメロンパンを食べた私。
ほんとに、何十年ぶりでしょうか。
そして思い出しました。
あ、私、このパン嫌いだったんだ・・・・・。(馬鹿と言ってやって)
でも安心。
私の母は、このメロンパンが大好物。
ぺろりと平らげてくれましたとさ。
メロンパンの名誉のために言っておきますが、
これは私が幼稚園の頃にはすでにあった物です。
それが
つまり、呉市民に愛される、
ロングロングセラーなのでありますよ。
今回の帰省では、あまり失敗もせず大人しく過ごせました。
帰りの高速バスがえびので休憩したとき、
おトイレからバスに戻ると、様子がへんなのです。
なんか、違和感ってのかな。
一番うしろの席だったので、ずんずん入っていくと、
私の席に知らない人が・・・・。
そう、バスを間違えて乗っていたのだ。
鹿児島行きのバスに。
失敗すると、思わず口に出してしまうのが私の悪いくせ。
「あっ、バス間違えた!」
ここで周りが笑ってくれたら救われるのですが、
みんなシーン・・・・。(そりゃそうだろ)
そんないたたまれない経験も、ま、小ネタですね。
では、今週も元気だしていきましょう。
2015年11月24日
目覚めれば、そこは阿波岐ヶ原。

日曜日は、福岡で日帰り勉強会でした。
ちょっと漢方のお話などもしなければならず、頑張った私。
(こう見えても、二人以上の前で話すのが苦手)
日帰りの交通手段は、高速バスであります。
なんたって安いし、バスの中で眠れるというのがその理由なのだ。
帰りなんて、ほっとしたのも手伝って、
ほとんど爆睡です。
一度、北熊本サービスエリアで目が覚めました。
が、その後もすぐに眠りに落ちた私。
高校のとき、スリーピングブーティーと呼ばれたのも
伊達じゃありません。
ぐっすり気持ちよく眠っていた私ですが、
ふと気づくとバスが停まっていました。
なんだか外は真っ暗な所です。
えびの?いや、小林か都城かな?
宮崎駅まで、あとどのくらいだろう。
駅で降りたら、タクシーで帰ろう。
ダーリンと息子は晩酌してるから、迎えは頼めないもんね。
開いたドアから、バス停の表示が見えました。
「阿波岐ヶ原」
・・・・・・・・・・・ん?阿波岐ヶ原って、どこだっけ?
あわきがはら、あわきがはら、・・・・えーーーっ!!阿波岐ヶ原!!???
そうです、私が乗った高速バスは、佐土原が終点というモノ。
前の席のお兄さんに聞きました。
「こ、ここっ、阿波岐ヶ原ですか????」
「そうですよ。」
「私、宮崎駅で降りるはずだったんですけど、停まりました!!??」
「えっ!!と、停まりましたよ!!」(驚いた様子)
「うわっ、私ずっと寝てたもんで気づかなかったんですよ。」
「えっ、そ、そうですか。」(完全に困った様子)
いいじゃん、そこで降りて帰れば、そう思う?
だって、夜の11時なんですよ。
外は真っ暗だし、雑木林の真ん中みたいだし、さすがの私も怖いじゃん。
あたふたしてるところへ、
荷物を下ろすために外に出ていた運転手さんが、乗り込んできました。
「すみません!!私、宮崎駅で降りるはずだったんですが、どうしましょう!!」
「えっ!!そんなこと言われても・・。」(驚きながらも困惑している様子)
「次はどこに停まるんですか?」
「次は佐土原、終点です。」
えっ!!佐土原まで!!
とりあえず、バスから降りなければならないのだけど、
真っ暗なところでポツンと取り残されるのは、怖くて嫌だったので、
「あの、どこかこの先の明るいところで下ろしてもらえませんか?」
「ええっ、そう言われても、そんなとこがあるかどうか・・。」(完全に迷惑そう)
「じゃあ、この近くに何かありませんか?」
「道の向かい側にローソンがありますよ。」
「あっ、じゃあ私ここで降りてローソンに行こうと思います。」
「そうですか。」(そんな宣言されても、知らんがなという顔)
散々迷惑かけたんだから(自覚はある)さっさと降りねば、
そう足早にバスを降りると、追いかけるように運転手さんが、
「お荷物、預けてなかったですか?」
預けてました。ありがとう。
変なオバサンに迷惑かけられながらも職務に忠実な運転手さん。
真っ暗な中、ローソンの灯りの有難かったこと。
さっきも言ったけど、ダーリンと息子は晩酌してるからお迎えは頼めません。
が、ラッキーだったのは広島の娘が帰ってきてたんです。
ぶつぶつ言いながらも迎えにきてくれたので、やっと私は我が家に帰りついたのでした。
「佐土原だったら行かんかったよ。」
そう娘に睨まれたキリンさん。
お店によく年配のお客様が来られ、
まったくこれだから年寄りは・・・なんて思うこともあるけれど、
今回は自分がその年寄になっちまったのでした。
ご迷惑おかけした皆様、申し訳ありませんでした。
2015年11月18日
妄想する力
「妄想する力」とか、「妄想力」という本がいずれ出るんじゃないかな。
いや、もう出てるかも。
出てないのなら、私が出そうかな。
それが出版されたらベストセラーになるかも。
ベストセラーになったら、印税ががっぽり。うふふ、えへへ。
と、妄想するキリンさんであります。
夜寝る前に、私はいつも漢方の本を読むのです。
ちょっと難しい本であります。
読みながら考えます。
こんな難しい本を読んでる私、すごいかも。
毎晩こうして勉強を続けたら、いずれ高名な漢方家になれるかもしれない。
そしたら評判が評判を呼んで、
全国からお客さんが殺到したりして。
うちの漢方薬を飲んで元気になった各地の人たちから、
きっとお礼が届くかも。
北海道はカニ?ウニもいいなあ。
青森はりんごだろうか。さくらんぼは何県だっけ?
いや~~、食べきれるかしら、困っちゃうな。うふふ、えへへ。
さて、どのあたりから私は夢の世界にいるでしょうか。
早いよ。
本、一年たっても読み終えてないから。
というわけで、いつまでたっても大成しない私なのですが、
とりあえず幸せにぐっすり眠ることだけは出来ております。
寝る前に楽しいことを考えるというのは、
不眠によく効くのだそうですが、
どれだけ幸せなことを考えることが出来るか、
それは妄想力によるのではないでしょうか。
それも、幸せな妄想ですよ。
暗いヤツはいけませんよ。
若い頃も、よく妄想しました。
街を歩きながら、片思いの彼とばったり出会わないかと。
「あれっ、ぐうぜん~~~。」
なんて言いながら、せっかくだからお茶なんか飲んだりして。
意外と話が合うねってことになって、次の約束しちゃったりして。
そして、きゃー、い、い、言えないっ!!!
なんてことは、一度もおきませんでしたが。
キリンさんってバカじゃない?そう思うアナタ、
みんな妄想するもんなんだよ。
歌にもあります。
♪ いつでも捜しているよ どっかに君の姿を
向かいのホーム 路地裏の窓
そんなとこにいるはずもない、わかっちゃいるけど、
もしかしたら会えるかも、もしも会えたら・・・とせつなく妄想する歌詞に、
みんな共感をおぼえるじゃありませんか。
妄想する時間は幸せな時間だと、私はそう思うのです。
とりあえず、寝る前に幸せ~な気分になれるよう、
妄想力を鍛えてみては如何でしょうか?
2015年11月16日
東京は、冷たくて、そして優しい。
東京に行ってきました。
薬屋関係の、とある会議であります。
その内容を説明してもつまらんから書きません。
羽田に着くまでは何事もなく、
なかなか順調な滑り出しでありました。
空港では、他の地方から上京するメンバーと待ち合わせ。
赤坂まで連れて行ってもらわねばならんからね。
「敵を知り己を知れば百戦また危うからず」
そう、自分の都会での移動能力の低さを知ってる私は、
誰かを頼ることにしているのだ。
これで戦に(移動に)負けることは(失敗することは)ないのだ。
「あかさかみつけまで行くから、けいきゅうでしんばしまで行って乗り換えだよ。」
意味はワカランが、素直にうなずき、憑いて、いや着いていく私。
「そこに券売機があるから買っておいで。」
そのメンバーは、日頃から上京の機会が多いので、
なんとかカードを持っており、切符は買わないのです。
内心ちょっとドキッとしたけど、切符の買い方くらいはね。
券売機の前では、長い行列が出来ていました。
そこに並びながら、上にある路線表示に書いてある金額を探せばいいんでしょ。
ふふふ、知ってるもんね、そのくらい。
「しんばし・・・・・」
あれ??
日頃から自覚していたのだけど、
視覚認識能力が落ちてきているのです。
寄る年波なのです。
列は少しずつ前に進んでいきます。
ど、ど、どうする?私!!頑張れ、私!!
自らを励ましてみましたが、それもむなしく、
最前列に来て券売機をにらむ私。
新幹線だと、行先を入力すると金額が出てくる・・・・。
出てくるわけないよね。
しかも、ナントカ線という路線を選ばねばならんという、
私の能力をはるかにオーバーした手順をふまねばならんのだ。
路線なんか知らんわ!!宮崎県民をなめんじゃねえぞ!!
冷たいぞ!!都会の券売機め!!
いくら腹の中で悪態ついたところで無駄なこと。
にっちもさっちも行かない私は、やっと後に迷惑かけてることに気付くのです。
並び直すしかない・・・・・・。
「すみません、どうぞお先に。」
そう振り返って言った相手は、いかにも都会風な、しゃれた若者でありました。
メガネがなんだか冷たく光り、無表情な感じが、やれやれ、と言ってるように思えました。
涙をこらえて(うそ)後ろに回ろうとしたその時、
その男性が、
「どこまでですか?」
「えっ、あ、あかさかみつけ・・・。」
「赤坂見附だったら、新橋で乗り換えですね。」
そう言って、私が握りしめていた千円札を受け取ると、
さっさと切符を買ってくれたのです!!!!
その、さらっと無造作な親切が、都会の優しさでありましょうか。
この嬉しい出来事から始まった東京では、
良いことばかり。
ふらっと入ったイタリアンなお店はめちゃめちゃ美味しくて、
よく見ると周りの席は外人客ばかりでした。
そしてカラオケでは、
アイス自爆物語という伝説が出来たのだけど、
それは私が主人公じゃないので披露はしません。
でも、抱腹絶倒だったんだよ~。
お仕事も充実な内容。
今日からの仕事にも、しっかり元気で取り組めそうです。
では、今週も元気だしていきましょうね。
2015年10月22日
松茸の思い出

しつこく松茸ネタでスミマセン。
自慢かって?自慢だよ。
友達から「松茸の思い出はなに?」
と聞かれました。
数々ある思い出の一つを披露しましょう。
それは小学校4年生の遠足でのこと。
当時の遠足といえば、ひたすら山に登ってばかりでした。
それもご近所の山です。
4年生の時の先生は、朗らかな女性の方でした。
山育ちの先生ですから足取りも軽く、みんなで歌いながらの行軍です。
最初は整列して登っていても、
もともと遊び慣れた場所なもんですから、徐々に乱れます。
「先生、ハジメくん達がいません!!」
「えっ、ほんまに!!??いつから!!??」
さっきまでいた男子の一群が、いつの間にかはぐれてしまったのです。
「みんな、い組の後についていって!!」
(私達は、ろ組。火消ではありませんが。)
引き返して男子たちを探す先生。
目くばせする私とY子さん。
そう、先生と行動をともにしようというのですよ。
先生も男子のことで頭がいっぱいだったのか、
ダメとは言われませんでした。
しばらくうろついていると、
シダが繁っているところからガサガサと音を立てながら、
ハジメ君たちが顔を出しました。
「あんたら!!」
と大声を出す先生の鼻先に、にゅっと突き出したもの。
それは・・・・
「先生、わしら、松茸狩りしょうたんで!」
20cmもあろうかと思われる巨大な松茸を、
誇らしげに掲げていたのです。
きゃーと歓声をあげる私とY子さんとは反対に、
先生は一瞬、言葉を失った感じ。
そして、
「ど、どこで?」
「あっち。」
「ダメでしょう!!松茸は、その山の持ち主のモノなんよ!!
黙って取ったら泥棒よ!!」
冷水を浴びせられたように、全員がちぢこまりました。
「かしんさい!!先生が後で謝りに行って返します!!」
それからみんな、黙々と歩き、先に行った人たちに合流したのでありました。
先生は、松茸のことを他の先生にいいつけもせず、黙っていてくれました。
が、一つの疑惑が。
「先生、ほんまに返しに行ったんかね?」
こそこそ話し合った私達ですが、真相は薮の中であります。
2015年10月19日
松茸の食べ方

広島に住んでいる娘が、
用事で宮崎に帰って来るというので頼みました。
「松茸、買ってきてね。」
「そのへんの八百屋さんにあるから。」
と、軽く頼んだのが大間違い。
だいたい八百屋さんがない。
世の中、変わったのね。
それでも頑張って手に入れてくれたのが、
画像の2本です。
お値段?それを聞いたら、
「キリンさんって、バカじゃないの?」
と言われるから秘密です。
その貴重な松茸をどうやって食べたのか?

それは「すきやき」なのだ。
またまた「キリンさんって、バカじゃないの?」
と言われそうですが、これが私のソウルフードの1つなのです。
子どもの頃、松茸はもっと一般的な食べ物でした。
そりゃあ、安いわけではなかったけど、今みたいにべらぼうな存在ではなく、
新聞紙に5~6本の包みを頂くこともよくあり、
秋になれば一度ならず食べていたのです。
それも、土瓶蒸しのようにチマチマと押し戴くのではなく、
どばっとすき焼きに入れて、豪快にむさぼるものなのでした。
すき焼きに入れたら、肝心のニオイが消えるのでは?
いえいえ、広島のマツタケは香りが高いのが特徴で、
すき焼きに入れたくらいで消えるものではありません。
味だって、野趣あふれる風味がタマラン美味しさなのだよ。
テレビで火野しょうへい(漢字忘れた)さんが言ってたけど、
勝新太郎さんがやはり「松茸はすき焼きに限る」と愛しておられたそうです。
そのゼイタクを、久々に味わいました。
松茸が不作になって久しい今日この頃。
手入れする人が減ったからとか、色んな理由があるみたいです。
どんどん食べる機会が減っていき、
今回だって、何年ぶりかわからんくらいです。
次回は果たしていつになるのやら。
それまで粗食にあまんじて、お金を貯めなければ。
食い意地の張ったキリンさんは、今日もお仕事にいそしむのでありました。
2015年10月08日
カープが負けてしまったら

夕べ、カープが負けてしまいました。
私の感想については、ノーコメントでお願いします。
もしも中学の頃の塾の先生が生きてたら、
どれほどの落胆であったでしょうか。
そう、塾の先生は熱烈なカープファン。
カープが負けようものなら、超不機嫌なのです。
いや、不機嫌だけならいいけど、八つ当たりしてくるんです。
数学と英語の塾なのに、漢字の書き取りテストをしたり、
「オマエの伯父さんが市会議員じゃというて、いばるな!!」
となぐられた男子もいました。(彼は大人しいタイプでまったくいばってません)
そんな困ったちゃんな先生でしたが、
教え方は面白くわかりやすかったので、私はこっそり尊敬していたのです。
中学2年になって、becauzeを習ったときのことです。
学校で習った訳し方を、塾では少し拡大して教わりました。
期末試験でbecauzeが出たとき、
私は迷わず塾の先生に言われた訳を書いたのですが、
返ってきた解答では、バツになっていたのです。
納得いかない私は、同じくバツをもらったツン子と一緒に、
「おかしいよねえ。〇のはずじゃろ。」
「先生が間違えとるよねえ。聞きに行こうか。」
と話し合い、英語の先生に聞きに行ったのです。
「ダメですよ、それは。間違いです。」
ぴしゃりと言われた私達は、
「だって、塾の先生は、それでもいいと言われました。」
子どもだったね、私達。
「学校と塾と、どっちを信じるのっ!!!!!」
先生は怒り心頭、立たされたまま長々と説教。
挙句の果てに校長室まで連れて行かれて、校長先生からまた説教。
あんまり怒られたので、ツン子と私は反省するどころか、
逆切れしてしまいまして、
よせばいいのに、塾の先生に言いつけてしまったのです。
「何をバカな!!間違ってませんよ!!」
ただでさえキレやすい先生、河童に似た禿げ頭まで真っ赤っか。
少し怖くなった私達が本当に後悔したのは、次の日のこと。
「ちょっと、アレ、タカミ先生じゃない?」
友達が指さす方を見ると、
広い校庭を、塾の先生が歩いて校舎に向かっている所でした。
「な、殴り込みか!!???」
ツン子と私は、思わぬ事の成り行きに、教室の陰で震えるばかり。
同じ塾の友達に、
「アンタらが、よけいなこと言うけんよ!乱闘になったらどうするん!!??」
どうしよう!!私ら、た、退学!!!???
どのくらい時間がたったか、長い長い時間のように思えましたが、
職員室から塾の先生が出てきて、そして校庭を横切り帰って行くのが見えました。
それから1週間ほど塾はお休みになったので、
もしや塾はお取り潰し!!??と、あらぬ疑いに悩みましたが、
何事もなかったかのように再開。
学校でどんないきさつがあったのか、誰に聞くこともできず、
全ては謎のまま終わりました。
そしてそして、その後で渡された通知表、
ツン子も私も思ったより低い点数だったのです。ショック。
「やっぱり、あのせいかね?」
そんな2人に、塾の先生は苦しそうに言いました。
「こんな点、つくはずないんですよ。こんな低い点数。
もし、お母ちゃんかお父ちゃんに怒られたら、
ほんまは2点くらい高いはずじゃとタカミ先生が言うたと言いんさい。
信じてもらえんかったら、ここに連れて来んさい。」
家まで行くとは言わず、連れてこいというところが先生らしい。
学校で、塾の先生はどんな扱いを受けたのでしょうか。
この事件について、結論じみたことは言えないのですが、
やっぱり私はこの塾の先生が好きでした。
今でも大好きな恩師と思っています。
生きてたら、酒飲みながら(飲めんけど)カープの話をしたかったね。
おまえは似非ファンだと、怒られるかもしれないけどね。
2015年10月07日
50肩になったアラカンの私
このお方の肩は、どこなのでありましょうか。
9月の中ごろから、
なんとなく肩に違和感があり、
枕か?布団か?はたまた寝相なのか?
と、ぼんやり考えておりました。
が、ただの違和感が本格化してこれは痛い。やっぱり50肩だよね。
そう覚悟したのが9月末。
東京の薬剤師で鍼灸の資格を持つ仲間から、
「58歳で50肩なんだから、普通より若いってことですよ。」
と、慰めだか、褒め言葉だか、どうでもよかったのか、
わけのわからん声をかけてもらいました。
その言葉を聞いて、
私は早生まれだから、まだ58だけど、
同級生の多くは59歳という年齢なのだなあと、いまさら気付いたのです。
そう、それは立派なアラカン。還暦目前。
9歳のときは、とてもチビだったので、
早く10歳になりたかった。(10歳になってもチビはチビだったが)
19歳のときは酒飲んで御所をふらつき補導されかけたので、
早く20歳になりたかった。
29歳のときは、妊娠出産で頭がいっぱいだったので、
覚えていない。
39歳のときは、30代にしがみつきたくなくて、
早く40歳になりたかった。
そして「華の40代」を過ごしました。
色んな人から、いっぱい自信をつけてもらいました。
49歳のときは、自分のパワーに自信満々だったので、
早く50歳になって、そのパワーを発揮したいと思っていた。
そして50代になってみると、
いかに自分の自信が根拠のないもので、お馬鹿さんだったのか、
思い知らされることが多々ありました。
お恥ずかしい。
早く60歳になって、仕切り直したいなあと思うのですが、
その前に、やれることはやっておかねば。
とりあえず、50肩を治しておきたい。
経験者の話を聞くと、1~2年はかかるという人がほとんどなので。
今は同業の仲間たちの意見を聞きながら、漢方薬を飲んで、我が身で実験中。
なかなか良い感じです。
50肩になったおかげで、
自分の人生を反省できたような気がします。
さて、もういっちょ、頑張りますか。